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高従誨(こうじゅうかい)は十国・荊南の第2代[君主]。
後唐の明宗の天成3年(928年)12月15日、後唐により南平王に冊封されていた高季興が死去すると高従誨がその地位を継承した。高季興の末年は後唐との関係に亀裂が生じており、呉に対しても臣下の礼を取っていたが、唐と呉の国力の差を考慮し、高従誨は即位後より後唐に帰順する政策を採用し、後唐から荊南節度使兼侍中に任じられ、長興3年(932年)には渤海王に封じられている。更に後唐閔帝の応順元年(934年)には南平王へと冊封された。
荊南は地理的に狭くまた兵力も十分でなかったが、当時の交通の要衝であり、毎年各地方から中原へ朝貢する使者が通過する場所であった。高季興、高従誨は使者を襲い財物を略奪する行為を繰り返し、使節を派遣した政権が報復攻撃に出るや奪ったものを返還していた。
その後、後唐、後晋、遼、後漢が先後して中原を割拠し、南漢、閩、呉、南唐、後蜀がすべて皇帝を称したのに対し、高従誨はそれらの臣下としての立場を堅持し、そのため他国より高頼子或いは高無頼と呼ばれることとなった。
後漢隠帝の乾祐元年(948年)に高従誨は死去すると、尚書令と文献王の諡号が贈られ、その子高保融が地位を継承した。